大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和48年(ワ)195号 判決

原告

堀田よふ

原告

堀田良雄

右両名訴訟代理人

下山田行雄

外二名

被告

学校法人日本医科大学

右代表者理事

高橋末雄

右訴訟代理人

今井文雄

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一良作(明治三五年一月七日生)が昭和四四年五月二二日被告との間で、両側陰のう水瘤の治療を被告病院泌尿器科で行う旨の準委任契約を締結したこと、その後良作が三か月に一回位の割合で一二回にわたり被告病院に通院し、同病院の泌尿器科担当医師から両側陰のうにたまつた漿液を抜きとる対症治療を受けていたこと、良作が昭和四七年二月一四日被告病院に入院し、同月二一日全身麻酔による両側陰のう水瘤の根治手術を受けたこと、良作が同月二八日午前五時五五分そのころ併発した急性気管支肺炎により死亡したこと、以上の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二被告の債務不履行責任について

(一)  治療方法として手術を選択したこと

原告らは、良作の罹患した両側陰のう水瘤の症状が軽症であり同人の年齢、体力及び他の疾患を考えれば、同人に全身麻酔による根治手術をすれば肺炎に感染し重篤となる虞があつたのであるから、被告の同人に対する両側陰のう水瘤の治療方法としては、全身麻酔による手術ではなく、対症療法によるべき注意義務があつたと主張するところ、良作が当時七〇歳の老人で、高血圧症及び糖尿病の疾患を有していたことは当事者間に争いがなく、また証人飯野明、同青柳昭雄の各証言中には、麻酔や手術自体が身体に対する侵襲であり、麻酔による或る程度の合併症は不可避であること、老人は通常呼吸器疾患を基盤に持つており抵抗力が弱いこと、一般に高血圧、糖尿病の患者は肺炎などの感染症に罹患し易いことなど、原告らの主張の趣旨に副う部分がないではないが、証人青柳昭雄の証言及び鑑定人青柳昭雄の鑑定の結果(特に、良作に対する全身麻酔は軽度であり、手術侵襲は少ないので、通常、肺炎に罹患する可能性が強いとはいえないとの部分)をあわせ考えると、右供述部分だけでは原告らの前記主張を認めるに足りず、他にこれを認めることができる証拠はない。

(二)  手術時期の選択

原告らは、良作の年齢並びに高血圧及び糖尿病などの疾患を考慮すれば、同人につき全身麻酔による両側陰のう水瘤の根治手術を行う場合には、ケトン尿及び糖尿をなくしたうえ、空腹時における血糖値が一五〇ミリグラム以下に下るのをまつて手術を行うべき注意義務があると主張し、証人飲野明の証言中には右主張の一部に副う部分(空腹時における血糖値が一五〇ミリグラムをこえる場合には全身麻酔による手術は危険であるとする説がある。)があるが、後掲各証拠及びこれによつて認められる事実関係と対比すると、良作の手術に関する限り原告ら主張のような注意義務があつたものとは認められず、他にこれを認めることができる証拠はない。かえつて、〈証拠〉を総合すると以下の事実が認められ、これによれば、被告が良作に手術を行つた時期等に誤りがあつたとはいえない。

1  良作は、昭和四四年五月ころ陰のう部に腫脹を覚え、被告病院で治療を受け(穿刺による漿液抜去)、以後一二回にわたり被告病院に通院して穿刺による対症治療を受けていたのであるが、その煩しさから根治療法を望むようになつたものの、同人の罹患した陰のう水瘤(睾丸固有鞘膜間に漿液がたまる疾患)の根治療法は手術しかなく、その旨担当医師から聞かされたため、暫くこれを見合わせていた。ところで右手術は本来局所麻酔による簡単なものではあるが、加齢とともに手術自体の適応を欠くこととなることから、被告病院の担当医師は良作に早期手術を勧告していた。そして良作は昭和四七年二月遂に根治手術を受けることを決意した。被告病院では良作が七〇歳で、高血圧及び糖尿病の疾患を有していること並びに無痛手術を切望していることなどから入院のうえ、精密検査を施してその適応を判断した後に手術を行うこととした。

2  良作は、昭和四七年二月一四日自ら徒歩で被告病院に入院したのであるが、被告病院(主治医近藤隆雄医師、指導教官近喰医師)では、前記のような事情から極めて慎重な検査を行つた。即ち、良作及びその家族から良作の家族歴、既応歴、現病歴を尋ね、その身体全般を視、触診し(肺を打診したが特に異常は認められなかつた。)胸部、腎蔵―尿管、膀胱の単純撮影(X線)を行い心電図をとつたうえ、二一日(手術の日)までに、一般細菌検査及び肝機能一般検査各二回、尿一般検査、電解質・鉄・銅検査・梅毒反応、血清検査、血液一般検査(白血球数など)、血液化学、腎機能検査、酵素検査及び結核菌塗抹検査各一回、並びに特に血糖値の推移を入念にチェックするため内分泌機能糖負荷試験検査を七回行い、食餌制限をして糖尿病二度食とし、また連日安静状態として体温、呼吸等の一般状態の推移を観察した。そして近藤医師は、一九日それまでの諸検査等の結果を内科担当医に回付し、内科担当医は直接良作の診断もしたうえ、近藤医師に対し、「心電図は手術に差支えなし、手術の方法にもよるが糖尿病の方が問題になりませんか。」という趣旨の返答を行つた。そこで近藤医師及び近喰医師(被告病院泌尿器科助教授)らは、以上の諸資料(なお、前記の諸検査の大部分は一九日迄に結果が判明していた。)及び内科の返答を検討した結果、血圧及び血糖値以外は概ね正常であり、血圧についても平常時180/100であり、空腹時における血糖値も一七〇ないし一八〇ミリグラムから一六四ミリグラムと減少してきており(正常値は一〇〇ミリグラム前後)、その程度ならいずれも適切なコントロール措置がとられているものであつて、簡単な手術に属する両側陰のう水瘤の根治手術の障害とはならないものであるから、右手術に適応するものと判断し、二一日に局所麻酔による手術を行うことに決定した。

3  そして、二一日血圧が184/102であることを確認のうえ、手術前に基礎麻酔として、硫酸アトロピン0.4ミリグラム及びペンタジン一五ミリグラムを投与し、被告病院の麻酔科担当医は午前九時一八分ころ腰髄麻酔としてテトラカインを一〇ミリグラム注入し、同病院の泌尿器科助教授近喰医師が自ら執刀して手術を開始した。ところが手術中良作が手を患部に動かすなどしたため、手術の早期遂行を図り、また良作が無痛手術を切望していたこと、他面手術中のため仰臥位の姿勢にある良作に腰髄麻酔を追加することは困難であつたことなどから、全身麻酔に切替えることとなつたのであるが、前記のような良作の健康状況からみて、当初の局部麻酔を全身麻酔に切替えたうえでの手術も充分に適応しうるものであつた。こうしてイソゾール0.5パーセント(総量二〇〇ミリグラム)及び笑気ガス(毎分四リットル、総量約一〇〇リットル)が与えられ、同五五分手術は短時間のうちに無事終了した。そして午前一〇時すぎ良作は麻酔からさめ(麻酔時間は約五〇分)、同一〇時半ころ半覚醒状態で病室に戻された。

4  なお、手術前の血圧は184/104であつたが、術中には194/110となり術後には220/120、更に同日午前一一時四五分には240/130となつたのであるが、これらは麻酔手術という侵襲から当然生じうるものであつて、本来手術が不適応であつたことを示すものではない。そして、その後の血圧降下剤の投与によりほぼ平常に復した。また空腹時における血糖値はその後二、三日は一二三ないし一八七であり、従前に比べ特に異常な数値を示しているわけではなかつた。

(三)  手術後の診療

良作が前記手術当時高齢で、高血圧及び糖尿病の疾患を有しており、一般的には肺炎に罹患し易い状況にあつたことは前記認定のとおりである。従つて、被告は良作に対し、手術後同人が肺炎(を始めとする各種感染症等)に罹患することのないよう注意して診療を行い、万一これに罹患した場合にはその症状の進行を防止するための適切な治療を行うべき契約上の注意義務があることは明らかである。そこでその注意義務の内容を更に詳細に検討すると、〈証拠〉によれば、まず①一般的に全身麻酔後の肺炎予防方法としては、手術二週間前からの喫煙禁止、術前に患者に深呼吸及び咳嗽・咳痰排出の練習をさせること、術後気道内分泌の排除、体位変換による咳痰排出、ネブライザー使用による咳痰排出、気道内分泌の乾燥防止、強い咳をすることにより咳痰排出(このためには適量の鎮痛剤投与のもとに半臥位として深呼吸をくり返させる。)、カテーテルを気管支腔内に挿管して喀痰の吸引排除・気管支鏡下に喀痰を吸引排除、糖尿病・高血圧などの術前から存在する合併症のコントロール及び抗生物質の投与の十項目があげられること、ただ良作のように軽度の全身麻酔を行い、しかも手術侵襲の少ない患者の場合、通常は肺炎に罹患する可能性が必ずしも強いとはいえないので、その予防対策としては、右の各項目のうち、一応次の四項目の組合わせ、即ち(イ)体位変換による喀痰の排出、(ロ)気道内分泌の乾燥防止、(ハ)術前に存在する合併症のコントロール、(ニ)強い咳をすることにより喀痰を排出させることで充分であること、②肺炎罹患後その早期発見のためには、(ホ)体温、脈搏数、呼吸の状況及び老人の場合更にその精神状態などの一般状態の観察(但し、老人の場合、肺炎に罹患してもその典型症状である発熱、咳嗽、喀痰、胸痛などの症状が出現しないことも多い。)、(ヘ)胸部の打聴診による理学的検査(但し、老人の場合、肺炎に罹患しても、理学的に異常所見が発見されない場合が多い。)を行う必要があること(加えて通常は、(ト)白血球数、白血球分画、赤沈の検査、(チ)胸部X線検査、(リ)喀痰検査、(ヌ)血液培養をも行う必要があるのであるが、この点については後に触れる。)、更に③肺炎発見後の治療方法としては、(ル)対症療法として脱水症状が認められれば経口又は輸液による脱水の治療、呼吸困難、チアノーゼが認められれば酸素吸入、血圧低下を伴う循環性虚脱が認められればノルアドレナリンなどの血圧上昇剤、輸液を行うなど、(ヲ)また原因療法としては、起炎菌不明の場合に病院内で感染した場合にはグラム陰性桿菌によることが多いので、セファロスポリン系抗生物質を(従前から与え続けていた本件では増量して)一日二ないし四グラム投与すること(通常は、あわせてアミノグリコシッド系やペニシリン系の抗生物質を投与することがベターであるがこの点については、後記三、(二)で触れる。)、以上の事実が認められ、右認定を左右する証拠はない。

右認定事実によれば、被告は良作に対し、手術後の肺炎予防のために右(イ)ないし(ニ)の、肺炎罹患の場合にその早期発見のために右(ホ)、(ヘ)の、そして肺炎発見後の治療にあたつては右(ル)、(ヲ)の各診療を行うべき注意義務を負つていたものである。なお原告らは、これとは別に、肺炎の予防、発見のため(内科などの)専門医による早期診断を被告の注意義務内容の一にあげるが、前記認定のとおり、良作に対する手術は特に肺炎に罹患する可能性の強いものではないのであるから、特に異常所見が現れた場合はともかくとして、常に右のような注意義務があつたとまでは解し難い。

そこで本件について右注意義務の遵守状況をみると、〈証拠〉等を総合すると、以下の事実が認められる。

1  近藤隆雄医師(当時主治医)は、前記手術後良作の血圧が高かつた(収縮期が二〇〇をこえていた。)ので血圧隆下剤として、二〇パーセントのフェノパルビタール及びアポプロンを各二回投与筋注し、翌二二日以降漸く血圧の下降をみるようになつた(収縮期が一九〇前後に下つた。)。そして、同日回診した近喰医師は、主治医に対し、引続き血圧のコントロール等のため、フェノバルビタール(鎮静剤)0.05グラム、コントール(精神安定剤)一五ミリグラム、エシドレックス(利尿剤)五〇ミリグラム、ダイクロ(同)三〇ミリグラム、アブレゾリン(血圧降下剤)五〇ミリグラム、セルパシル(同)0.5ミリグラム、煆性マグネシア(瀉下剤)0.8グラム、ノルモザン(制酸剤)1.0グラムを同月二六日まで連日投与するよう指示し、同日以降右薬剤が良作に投与された。その結果、二二日以降二六日までの間良作の血圧はほぼ正常値を維持していた(概ね、収縮期が一四〇ないし一五〇、拡散期が八〇ないし九〇)。

2  良作の空腹時における血糖のコントロールについては、近藤医師は、二二日以降四日間良作に対して糖尿病治療用のラスチノンを投与し、その結果、空腹時における血糖値は二六日までの間は一二三ないし一九六であつた。

3  被告病院では、合併症の術後悪化その他を観察発見するため、良作について、血圧、体温は毎日三回、脈搏数は毎日二、三回計測し、血糖の検査を殆んど毎日行い、一般細菌検査も行つた。また、呼吸その他一般状態を連日観察していた。

4  近藤医師及び富田医師(後に主治医)は、肺炎等の感染症予防のため良作に対し、通常であれば投与する必要が必ずしもないセファロスポリン系のセファロシン(商品名ケフリン)を二二日から二五日まで朝夕各一グラム宛筋注し、また同じくセファロリジン(商品名ケフロジン)を二一日、二六日、二七日に各一グラム宛筋注した。

5  また近藤、富田及び横山医師は、栄養及び水分の補給を兼ねて、二一日に二回、二四日及び二七日に各一回点滴を行つた。

6  良作の手術後の症状一般をみると以下のとおりである。手術室から戻つた際にはその血圧が高かつたことから顔面紅潮気味であつたが創部痛などなく、その後良作が腰部痛を訴えたこともあつて、円坐使用による坐位の姿勢をとらせたりした。なお排尿のため導管が挿入され、夜半口喝があつたが、これは手術及び糖尿病自体に起因するものと推定される。翌二二日には熱感はあつたが創痛、気分不快感、頭痛などはなかつた。口喝及び傾眠傾向はあつたが、回診した近喰医師が視聴診を行つたところ格別の異常を認めなかつた。二三日も傾眠気味で軽度の朦朧状態が持続したが、正午には正常に復し、気分も良好であつた。二四日は、創部痛、頭痛、眩暈はなく、顔色良好で、傾眠傾向こそみられたが意識は明瞭であり、同日回診した近喰医師が視聴診を行つたところ、格別の異常を認めなかつた。二五日も傾眠気味で時折うわ言をいい、食欲がなく、このころから尿の排出が不良となつてきた。二六日は、頭痛、眩暈、耳鳴等もなく、意識はあるが傾眠気味で会話に不明瞭なところがみられた。なお二六日までの何日間か富田医師が良作を視聴診したが格別の異常を認めなかつた。

7  以上のような諸検査等の結果、二六日までの良作の症状は、一部異常があつても(例えば二二日に一度体温が三九度をこえた。)継続せず、結局全体として観察すると、特に肺炎等の感染症を疑わせるような所見は見あたらなかつた。なお良作は、この間概ね傾眠状態にあつたのであるが、これは麻酔によるものではなく手術後から継続的に投与された精神安定剤、睡眠剤、血圧降下剤を含む薬剤の影響による可能性が大きく、特に異常な所見であるとはいえなかつた。

8 ところが、二七日当直の横山医師は回診後、看護婦から良作の容体が尋常ではないとして再診を依頼され、午前一〇時ころ来診したところ、同人は依然傾眠状態にあり、血圧を測定したところ当初198/100、午前一一時ころで152/86であつたが、脈が早く(一一八)、体温も上昇していた(三八度前後と推定される。)。そして、各種診断の結果、四肢の運動は可能であり、脳中枢神経系統の障害の症状はなく、応答はするが意識の混濁があり、嚥下障害が認められた。そこで横山医師は、良作に肺炎の疑いを抱き、当時良作に対して投与されていた飲薬の内容、種類がわからなかつたので、良作の傾眠傾向の原因をはつきりさせるため、とりあえず、飲薬(実際には、精神安定剤のコントール、糖尿病治療用のラスチノンなど)の投与を中止した。そして同医師は、良作の家族の希望もあつたので翌日に予定されていた内科医による診断を急拠求めることにした。そこで同日午後二時ころ内科の長沢医師が来診し、デキストロステックにより血糖が異常に多くはないこと、尿からアセトン体が検出されないことを確認のうえ、糖尿病による昏睡ではなく、第一に、ラッセル音こそ聴取できないが肺炎の疑がかなりあることを指摘し、胸部レントゲン写真をとること及び化学療法を強力にすることを要請し、次いでダイクロを投与していることから電解質異常の可能性があることをも指摘した。これを受けて横山医師は、早速フルクトンM3五〇〇ミリリットルとセファロシン(ケフリン)二グラムの点滴を行つた。なおこのころ良作は喀痰を(自力で)排出するようになつた。その後も良作は傾眠状態にあつたが、夜九時ころには覚醒し、喀痰の排出を良くするため坐位の姿勢をとつていた。同日夜更にセファロシン(ケフリン)一グラムが投与された(前記二(三)4のケフロジン一グラムを併せると、二七日は、セファロスポリン系抗生剤計四グラム投与。)。

しかし翌二八日から血圧が上昇し始め(収縮期に二〇〇をはるかにこえていた。)、脈搏数も一〇〇をはるかにこえるなど早くかつ不整となり、熱感を帯び全身に発汗を生じたので、輸液ラクテックG五〇〇ミリリットルの点滴が行われた。そして午前五時ころには逆に血圧が異常に低下したので、血圧上昇剤ノルアドレナリンを投与し、また無呼吸状態となつたので人工呼吸器による人工呼吸、心蔵マッサージ、吸引器による痰の吸引、気管内挿管による呼吸の確保、心電図の採取などが行われたが、遂に良作は同日午前五時五五分死亡した。

以上の事実が認められ〈る。〉

右認定事実によれば、①被告は、良作の肺炎予防対策として、前記(イ)(体位変換による痰の排出)につき、手術後早期に良作に坐位の姿勢をとらせて喀痰の排出を早くするよう試みており、(ロ)(気道内分泌の乾燥防止)につき、術後二一日に二回、二四日及び二七日に各一回それぞれ点滴による補液を行つている。そして(ハ)(術前から存在する糖尿病、高血圧症の合併症のコントロール)については、連日のように血圧測定、血糖検査が行われる一方、血圧降下剤や糖尿病治療用薬剤が投与され、血圧は充分に、血糖は術前と著変がない程度にコントロールされていた。なお良作は、血圧降下剤等により傾眠状態に陥つた可能性が大であるところ、右のような傾眠傾向が喀出力の滅弱した老人にとつて咳嗽反射を純らせ、術後の喀痰排泄を困難にしたため、細菌性肺炎発病の因子となつたとも考えられなくはないが、通常の細菌性肺炎であれば、適量といえる抗生剤が投与されており、また術後早期から坐位をとらせるなど、呼吸器疾患に対する充分な予防措置がとられているのであつて、血圧降下剤等の使用それ自体に特に問題があつたものとはいえない。更にすすんで感染防止のため、広域抗生剤で抗菌力が強く副作用も少なく、肺炎の予防、治療に効果の大きいセファロスポリン系抗生物質が連日投与されていたのである。これに対し、(ニ)(強い咳をすることにより咳痰を排出させること)については行われた形跡が見あたらないが、本来(イ)ないし(ニ)の予防策は各個独立の注意義務内容というよりは、その性質上一つの予防上の注意義務の要素と観念すべきものといえるから、そのうちの一つの要素を欠いたからといつて当然に全体としてその注意義務を懈怠したものとは断じ難く(また右(ニ)を行えば良作の肺炎罹患を予防しえたと断ずる証拠もない。)右(ニ)の要素が肺炎等の予防上の注意義務の中で特に本質的かつ非代替的なものであるといえないし、その他の(イ)ないし(ハ)の措置及び強力な抗生物質の投与が行われている以上、右(ニ)の措置がとられなかつたからといつて、被告に予防上の注意義務違反があつたということはできない。また、②被告は、良作の肺炎の早期発見のために前記(ホ)(一般状態の観察)、(ヘ)(理学的検査―聴診など)を行つている(なお、(ト)((白血球数等の検査))、(チ)((胸部X線検査))、(リ)((喀痰検査))、(ヌ)((血液培養))は行われなかつたのであるが、前示二(二)2のとおり、被告は術前に(ト)(血液一般検査において白血球数の検査)、(チ)を行つているがその際には格別異常もみられず、二七日より前においては、特に肺炎を疑わせるような所見はなく、しかも他方で強力な抗生物質であるセファロスポリン系薬剤を連日投与していたことに照らすと、被告において当時右(ト)ないし(ヌ)を行うべき注意義務があつたとまではいえない。)。③最後に、肺炎発見後の治療としては、(ル)(対症療法―点滴、血圧上昇剤の投与等)は行われており、また(ヲ)(原因療法)もセファロスポリン系抗生物質をそれまでの一日一ないし二グラムから一日四グラムに増量投与しており、不適切な処置があつたものとは認められない。

以上のとおりであるから、良作に対する術後治療が不適切であつたとする原告の主張は失当である。

(四)  〈省略〉

三不法行為に基づく請求について

(一)  被告が被告病院を開設し、同病院において近喰、長沢、富田、横山各医師を雇用し、同医師らを良作の両側陰のう水瘤に関する治療にあたらせていたことは当事者間に争いがない。

しかし、原告らの主張する請求原因(四)1(手術時期の誤まり)及び同2(手術後の診療の不適切)については、原告らの主張が採用できないことは、前判示のとおりである。

(二)  適正薬剤の投与について

被告が術後良作に対し、毎日広域抗生剤で抗菌力が強く、副作用も少ないセファロスポリン系抗生物質を一ないし二グラム投与していたこと、良作の肺炎罹患発見後の二月二七日以降これを一日四グラムとしたことは前記認定のとおりであり、被告の医師が良作にアミノグリコシッド系抗生物質を投与しなかつたことは当事者間に争いがない。原告らは、被告がセファロスポリン系抗生物質の投与を増量したにとどまり、アミノグリコシッド系抗生物質を投与しなかつたことは被告の過失である旨主張するところ、証人青柳昭雄の証言及び鑑定人青柳昭雄の鑑定の結果中には、従来からセファロスポリン系抗生物質を投与していながら肺炎に罹患しているので、(セファロスポリン系抗生物質を増量するとともにこれとあわせて)アミノグリコシッド系抗生物質を投与した方がより適切な治療方法であつた可能性があるとの部分があるが、後掲各証拠及びこれによつて認められる事実関係に照らすと、それだけでは原告らの主張を認めることはできず、他にこれを認めることができる的確な証拠はない。かえつて、〈証拠〉によれば、老人性肺炎の場合に選択すべき抗生物質はまずペニシリン系及びセファロスポリン系とされているが、ペニシリン系に比べてセファロスポリン系の方が効力が広範囲であること、当時の医学文献上セファロスポリン系抗生物質の適量は0.5ないし二グラムとされており、急性肺炎につき一日一グラムで治療した症例が報告されていたこと、従つて被告が二七日以降投与したセファロスポリン系抗生物質の量は通常の二ないし八倍という強力なものであつたこと、他方アミノグリコシッド系は当時新薬として使われ始めたころであり、腎機能障害の多い老人には一般にその投与は注意すべきものとされていたこと、ところで良作は、死亡前二時間前の検査によるとクレアチニンが2.1(正常値は1.0ないし2.0)、尿素窒素が五一mg/dl(正常値は一〇ないし二〇mg/dl)であり腎機能の障害が疑えたことが認められる。

なお、〈証拠等〉を総合すると、良作の肺炎の経過は極めて急激であつて、このように高齢者の電撃性に発症した細菌性肺炎で基盤に糖尿病を合併する場合には、しばしばいかなる強力な治療にも反応せず予後不良であることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないから、セファロスポリン系抗生物質の投与量の適否、アミノグリコシッド系抗生物質投与の適否は、高齢で糖尿病を患つていた良作の細菌性肺炎が電撃性に発症したものとすれば(細菌性肺炎でないとすれば、右のような薬剤選択の問題は生じない。)、良作の死亡との間に相当因果関係が存しない蓋然性が高いものといわざるをえない。

(三)  説明義務違反による承諾の欠缺

近喰医師が良作に対し原告ら主張の請求原因(四)4(1)ないし(3)について説明を施さなかつたことは当事者間に争いがない。原告らは、局部麻酔に比べて全身麻酔による手術の方が、体力が極度に衰え抵抗力を失い、そのため肺炎に罹患する危険性が極めて高くなると主張するが、これを認めることができる証拠はなく、かえつて、前記認定事実によれば、良作の手術は簡単な類のものであり、従つてまたその手術を行う際の手段として全身麻酔を行つても、これまた軽度のものであつて、局部麻酔による手術の場合と比べて特に肺炎に罹患する可能性が高いものではない。

従つて、全身麻酔による両側陰のう水瘤の根治手術を行つた場合には肺炎罹患の危険性が大きいこと及びこれを前提とする生命の危険性について、近喰医師に説明義務があつたということはできない。そして、そうであれば、良作は両側陰のう水瘤の根治手術(最低限局部麻酔は不可避である。)について同意を与える以上、手術の一要素にすぎずかつ局部麻酔と比べて特に危険であるとも認められない全身麻酔の採否について、同医師が良作に対しその説明を施したうえあらためてその承諾を得なければならないものではない。〈以下、省略〉

(篠原幾馬 和田日出光 佐藤陽一)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例